日本共産党和歌山市議団の活動[議会と市会議員の近況・・・


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紀氏の埴輪展

 渡辺忠広です。紀氏の埴輪展_a0041579_14494027.jpg
 今、県立紀伊風土記の丘で展示されている「大王の埴輪 紀氏の埴輪」展を見学へ行ってきました。紀氏集団は古墳時代後期、紀ノ川下流域を治めていた「首長一族」といわれ、大規模な墳墓に葬られたことを物語るに相応しい大型円筒埴輪をはじめ、高床式住居埴輪、翼を広げた鳥形埴輪等、180点が一堂に展示されています。
 とりわけ家形埴輪は身の丈にも及ぶ巨大さで、墳墓の規模の大きさを示し、地域における支配力を物語っています。
 紀氏の埴輪展_a0041579_14491751.jpg和歌山市周辺の古墳はおもしろい。紀ノ川右岸を中心とした古墳は大谷古墳、木ノ本地区の茶臼山、車駕之古祉古墳は「前方後円墳」であり鉄製馬冑、金製「勾玉」の出土は朝鮮半島との交易を示しています。ほぼ同時期の紀ノ川左岸の今城塚、岩橋千里塚古墳群も泥・土を利用した「前方後円墳」で、円筒埴輪はその囲いの堰堤のためのものですが、いつ頃からか墳墓形式が横穴式石室に変化しています。紀氏首長一族の埋葬方法の違いは単に時代の差ではなく、当時の支配勢力の移り変わりを示しているのではないか、と私は思っています。
 紀氏集団は紀ノ川全域を支配していた有力集団であり、祭祀・墳墓形式の違いは紀ノ川をまたいで南北の勢力図ができ紀ノ川左岸を中心に一大勢力圏ができたことを墳墓形式が語っています。従来の祭祀方法・前方後円墳を石室古墳に変えることで当時の政治支配の覇権を誇示したもの、と私は思っています。
 石室墳墓へは出入りが可能であり、西ノ庄古墳の発掘を見学した際、小規模の「追葬」古墳群がみられ何人かの先人が追葬されていました。墳墓内部には「青花崗石」(紀ノ川左岸に多い)が敷き詰められ、当時は紀ノ川左岸との往来・交流を示したものの、岩橋千里塚古墳群のような大規模な墳墓は右岸には見あたらない。紀氏一族の支配は左岸に集中していたことを示している、と私は思っています。
 日本の国家形成直前の紀ノ川下流域を中心とする紀氏一族の勢力圏の移り変わりを「大王の埴輪 紀氏の埴輪」展示を見学し、当時の人々の政治と暮らしに自分流に思いを馳せる機会を得たことは、心の洗濯となった。
(友達からいただいた翼を広げた鳥型埴輪写真)
 
by jcpsigidan | 2011-10-17 08:15 | 渡辺 忠広